calendar

S M T W T F S
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
<< December 2010 >>

categories

無料
無料
無料






archives

大山倍達マニアック検定

ある日の極真会 7 (近代カラテ 1967年11月号)

JUGEMテーマ:空手
 年末だからという訳では無いかと思うんですが、最近忙しい上、風邪を引いているので先月16日に途中まで書いていた分を更新します。

近代カラテ1967_11.jpg

「空手ニュース」 海外から
・オーストラリア支部の審査会
 今年の春にオーストラリアで指導を開始した加藤重夫指導員が、この度審査会を催した。
 審査会では加藤指導員とアイブン・ザベチャーノ氏が審査を行い、その結果が本部に送附され、二段位1名、初段位1名、昇級者は21名が認可された。

・ライフ誌に載った中村忠指導員
 この程、「ライフ」誌にアメリカの空手の近況が載った。 その中でも極真会館の中村忠指導員が載っており、氏の活躍の成果と言えるだろう。

大山茂中村忠196711.jpg
ニューヨークの合宿: 中村指導員と左の後ろ姿が大山指導員

・ヨーロッパ空手チャンピオンシップ優勝のイギリス極真会館チーム
 イギリス極真会館のボブ・ボルトン支部長の便りによれば、先頃行われた全ヨーロッパ空手チャンピオンシップに、ボルトン支部長、スティーブ・アニール支部長も加わってチームを編成し参加した結果、チーム優勝とその他にも多くのトロフィーを獲得し、非常に良い成績を収めたという。

イギリス極真会196711.jpg
イギリス極真会館

・オランダ極真会館からの留学生
 オランダ極真会館ジョン・ブルミン五段の弟子である、ジャン・カレンバッチ氏が本郡で修行する為に来日する予定である。 氏はオランダでは二段として活躍している。

・グアム島からの留学生
 昨年、テッド・タオタオ氏が極真会館本部に来館、みっちり稽古を積んで帰国し、現在グアムに道場を建てて指導している。 その内の一人、メルビン・B・アンタラン氏が10月中旬に来日して、本部で厳しい稽古に没頭している。
 当初は短期間の修行だったのだが、本部の稽古を見て1年位稽古をしたくなって、現在ビザの変更申請中との事。

・海外からの留学希望目白押し
 極真会館は、近年中に国際空手専門学校を設立するだろう。
 と言うのは、大山倍達館長が長年に渡って蒔いてきた外国の種が芽を出し、留学希望者が殺到しているからである。
 これらの留学は、極真会館が海外からの多くの留学生に対処する設備や組織を造り直さなくてはならない事を物語っている。

「空手ニュース」 国内から
・極真会館秋期昇級昇段審査会
 10月1日、今年度の秋期審査会が催された。 100名を超す受験者が道場に溢れ、大山館長並びに諸先輩方、そして中国拳法の大家澤井健一先生がゲスト審査員として出席された。

大山倍達澤井健一196711.jpg
大山倍達館長と澤井健一先生

 又、多くの見学者が訪れていたが、特に米軍朝霞キャンプからの見学者が目立った。中にはベトナムからの帰還兵がおり、懐かしそうに見ていた。 内一人は、大山館長がアメリカに渡った初期に親切に遇してくれた人で、ベトナムでの戦いを終えて帰国の途中に大山館長との再会を果たしたので有った。

「この人に聞く」 第19回
 アルジェリア空手留学生 ライシュ・ヴェロニス氏

ヴェロニス.jpg

 松濤館フランス支部で空手を学び、大山館長の本を読み留学を決めた。 現在は極真会館で二級。

極真会館本部
秋期審査会を開催
 ニュースでも伝えた通り、極真会館本部道場では近郊支部からの参加者を交えて、本年度2度目の秋期昇段昇級審査会を開いた。 審査会は、極真会館では原則として春と秋に行われている。

審査会196711.jpg


「新しい武士道」第11回
文:歌人 草壁焔太

「古武道の研究(お留武術について)その1 示現流兵法」
文:松田鉦

「近代カラテ 誌上教室」 第4回

「空手と禅」 第3回
文: 極真会館館長 大山倍達

「武道と空」 第10回
文:作家 森川哲郎

「美容教室」第1回
女性美について

「私の道程」第16話
文:極真会館館長 大山倍達

「国の目」
見くびられたか空手家
文:大山国良
 先日、某レコード会社の若い女性流行歌手が極真会館に訪れ、3日間で空手を教えてくれと言ってきた。 大山館長は3日でマスターは無理だが、ちゃんと修行すればテレビで恥をかかぬ程度には出来ると答えたところ、入会せずに帰った。
 ところがそれから1週間経ったある日、週刊誌やテレビでその女性が黒帯を締めて空手の演武をしていたという話。
 

 本当は「空手バカ一代」の続きを書く予定でしたが、忙しいのと体調が悪かったので、ちょっと先延ばしします。
 今回もあんまり解説はいらない気がしますが、「国の目」について書いてみます。 すぐに「クニの目」と改題するんですが、「現代カラテマガジン」でも連載していたので、知っている方は多いかも知れませんね。 執筆されているのは大山国良という方で、名字は大山総裁と同じですが、血縁関係はありません。 元々はボクシングをやられた様ですが、田園コロシアムでの大山総裁と闘牛・雷電号との対決を見て入門されたそうです。 もう亡くなられたと聞きますが、70年代までは本部に顔を出されていました。

 ところで、先々のネタ用に、「空手バカ一代」でブルース・リーの師として登場する方の本を始め、15冊程買い込んでみましたw
 私が留学していた90年代でもこの方の本は何種類か書店で見掛けていたのですが、空手以外にも柔道、合気道、太極拳、サバット等の技術書を書いていたので、あまりにも胡散臭く、スルー気味で購入するのは初めてです。
 まぁ、元ネタシリーズでその内書くと思いますが、この先生が極真の有段者だったという記録が見付からないんですよね。 見ているのは73年の有段者名簿なんですが、そこには名前が無い。 で、60年代に出した空手の技術書を購入してみる事にした訳です。
 この辺りのネタは早くても来年2月以降に書く予定です。2月末頃に、ホットトイズのブルース・リー・アクション・フィギュアが手元に届くはずですので、入手後にテンションを上げて書きたいと思いますw

3204-12.jpg
【ムービー・マスターピース DX】 『燃えよドラゴン』1/6スケールフィギュア リー

 ちなみにこのフィギュア、出来が素晴らしく眼球まで動くみたいです。 私はブルース・リーは好きですが、マニアでは無いので、原著以外は殆ど持っていません。 ビデオも20周忌だったと思いますが、ワーナー・ブラザーズが出したセットのビデオぐらいしか持ってません(最近ブルー・レイで欲しいと思ってる)。 しかし、このフィギュアの剃り跡まで再現した精巧さに惹かれ、思わずネットでポチってしまいましたw その後数日で予約出来なくなっていたので、ラッキーだったと思います。

 それでは、また。

 
参考文献:
近代カラテ 1967年11月号

参考リンク:
【ムービー・マスターピース DX】 『燃えよドラゴン』1/6スケールフィギュア リー





 






東京・池袋の武道具専門店 ブドウショップ



フレッツ光で最大106,000円キャッシュバック実施中!

「空手バカ一代」の元ネタ 2-2(KCコミック第1巻より)

JUGEMテーマ:空手
 さて、前回の続きです。
 昨日は完全オフにしようと思っていたのですが、ちょっと長谷川一幸(巨気)先生のDVD映像特典に入っている第2回全日本の映像を見てしまい、ついでに一部で第1回全日本の映像と言われている8ミリ(実際には第2回の映像と思われる。 というのも特典映像と違う角度で撮影されているが、佐藤勝昭先生や富樫宜資先生らしい人物が写っている)、真樹日佐夫先生原作の「すてごろ」等々色々見てしまい、あんまりオフにならなかった気がしますw
 レア映像もその内紹介したいですね。

本シリーズはコチラから。
 
 
KC空手バカ一代1.jpg

 そうそう、本編を始める前に一言。 前回、「宮本武蔵」の本について話をしましたが、その後「世界ケンカ旅行」を読んでいたら、「全8巻」と書いてあったので、戦前に出版された大日本雄辯會講談社版を読んでいたと思います。

 大山倍達が山籠もりを開始したのは「空手バカ一代」では1946年の秋頃となっていますが、現在残されている山籠もりの際に付けていた稽古日誌では、47年4月が一番古い日付の様です。

清澄山山籠もり.jpg
稽古日誌

 1956年に山口剛玄先生と共にインタビューを受けた時の物を抜粋してみます(「東京毎夕新聞」 1956年4/30)。

大山倍達山口剛玄インタビュー.jpg

大山 初めて山へ入つたのは昭和二十二年七月です。 戰後、ある事件を起こしてしまいましてねぇ。 それがだんだん大きくなつてしまつたものだから、あつちこつち逃げ歩いたんです。 そのとき、曹寧柱先生(原文ママ)と知り合つたのですが、曹先生に、
 「山に入つて、落着いた方がいいだろう」
 といわれたので、その気になつて、田中清源氏(原文ママ)の世話で天城山に入つたのです。 でもこのときは半年ぐらいで下りて来てしまいました。ハツキリいえばCIDとMPに追い回されたので山の中に逃げ込んだんです。
(中略)
 その後、どうせ空手をやるなら、日本一になつてやろうと決心して、日蓮上人が悟りを開いた千葉県の清澄山に入つたんです。 そのときは、裾から二舛阿蕕い了海涼罎望屋を作りまして、八代という弟子と二人で入つたんです。
(中略)
大山 山に入るときは丸坊主になつて、髪と修業と競争するつもりだつたんですが、やはり町に行きたくて、どうしようもなかつた。
(中略)
…それで、また心を振るい立たせて眉毛を片方ずつ剃つて、町へ出られないようにしたんです。 眉毛は伸びが遅いですからね…一日五時間ぐらい稽古したんです。 そのうち、町の子供たちが「天狗がいる」といって見に来ましたよ。

 どうでしょうか。「空手バカ一代」のエピソードが含まれてますね。
 元々、眉を剃ったのは文中では省略していますが、椎柱先生に手紙を書いて苦悩を吐露した所、進められて眉を剃ったという事です。 これは戦前、剛柔流の山口剛玄先生が山籠もりの際にやった事ですので、それを沈萓犬伝えたのでしょう。

 「大山倍達正伝」を曲解して「大山倍達は山籠もりをしなかった」と言っている人も居るようですが、正確には「長期間では無く、何度も山籠もりを繰り返した」というのが真相でしょう。 籠もったのは清澄山の他に、身延山、七面山、天城山、三峯山の様です。
 ちなみに妻の智弥子夫人は当時の苦労話を「わが夫、大山倍達」という対談本で実にほのぼのと語っており、山籠もりについてはこの様に語っています。

ー総裁が清澄山に籠もられたのはその頃ですね。
智弥子 そうですね。 一度だけ山に訪ねて行ったことがあるんですよ。 でも、追い返されちゃいました。

 また、智弥子夫人は眉を剃り落とした大山総裁が下山して来た時もばったり出くわしています。

空バカ眉剃り.jpg

ー眉毛剃ったのは見たことありますか。
智弥子 ありますよ。
(中略)
それを私に見られた。 自分で決めたことを総裁自身が破った。 それで自分の弱さに気づいたんだと思います。 それで両方の眉毛を剃りましたね。 最初は鉢巻きして隠してたからわからなかったんですよね。 それで気づいた時にはおかしかったけど、でも笑っちゃいけないでしょ。

 他にも「大山名人」が山籠もりをしていたという証言を元に、清澄山で修業していた場所を探し回った真崎明氏とメディアエイトの前田達雄社長が、修業時に残したと思われる鍋や瓶を発見しています(尤も、本当に総裁が使っていた物なのかは不明)。

清澄山遺品.jpg
清澄山で発掘された物

 途中下山して奉納相撲に出場する話ですが、かつて大山総裁がお世話になった辻兼一という先生のご子息、正弘氏が以下の様に語っています。

空バカ奉納相撲.jpg

大山さんと秋祭りに行った時の事です。 場所は今の長良川小学校なんですけど、そこに土俵があって、相撲大会が行われていたんですね。
 すると大山さんは「一丁、出てみるか」と言って、まわしを着け、土俵に上がるや、どんどん相手を投げ飛ばしてしまうわけです。 大山さんは韓国の方なんで相撲の技は知りませんが、力ずくで相手を倒してしまう。 そして、地元の力自慢で有名な人にも勝ってしまった。 ものすごく強かったです。
 その相撲大会の主催者は『相撲の知らない男がなんであんなに強いんだ!』と驚いていました。 そして優勝した大山さんは米俵を一俵、懸賞でもらい、家にプレゼントとして持って帰りました。 それが大山さんが強かったという唯一の思い出です。

 そして、下山。 大山倍達が電信柱を叩き、雀が落下するというシーンがあります。 これは関西テレビの番組「明日ハレルヤ」で大山総裁自身が語ったところによれば、こうでした。

あれ、漫画ではね、雀が落ちてるんだけども、雀は落ちやしないよ。(スタジオ内爆笑) しかし瞬間ねぇ、瞬間、あの〜飛べないんだね。 瞬間びっくりして。そして手で叩いたその跡がねぇ、そのまま残って。

空バカ電柱.jpg

***

 下山後、大山倍達は空手の全日本大会が開かれる事を知り、飛び入り参加をする訳ですが、この時の記事は47年の「京都新聞」(1947年9/28)が唯一と思われます。 GHQが武道禁止令があったので、この大会が嘘だという人もいますが、圓心倶楽部主催による体育大会があったのは事実であり、そこで空手や柔道が披露されたのも事実です。

京都新聞昭和22年9月.jpg
体育大会を伝える京都新聞の記事

 これは不確かな情報なのですが、空手に関しては沖縄の武技だという事で、他の武術を尻目に解禁されていたという話も聞いた事があります。 実際、東大空手部は戦後一度廃部になって、1947年に復活していますし、早稲田の空手部の場合は大浜信泉という先生が文部省とGHQに交渉し、廃部にすらならなかったという話ですから、ルーズなところもあったのだと思います。

 さて、この大会の証言者を紹介してみます。 最初は大山総裁の師、椎柱先生です。 沈萓犬和膸柿躡曚鯊膕颪望靴い芯ニ椰佑如△海梁膕颪任録拡修發笋辰燭箸了。

 当時はまだ山口先生は大陸から引き揚げる前で、私も審判などをやったんだが、大山は試合に出た。 空手の試合は大山の他に2、3組がやっただけで、全員が試合をしたわけではないよ。
(中略)
空手では、他の奴は型や、瓦の試し割りをやったりした。
 この時の組手では、防具も少し着けたんじゃないかな。 たしか、銃剣術の防具(胴)と剣道の面を着けてやった。 スネ当てはなかったので、足掛け(下段蹴り)はなかった。 大山の相手は鹿児島出身で、警察上がりの男だったな。その頃はまだ大山も後年ほどには太くなかったが、相手の男も似たり寄ったりの体格だった。 どんどん攻めていったので、誰が見ても大山の勝ちだったよ。 奴も嬉しかったようで、すぐに館山へ電報を打っていたな。

 もう一人は、後に本部直轄大阪道場の責任者となる、岩村博文先生です。 当時柔道を学んでいた岩村先生は、この大会を見に行き、大山総裁と出会いました。 以下引用。

空バカ全日本.jpg

 「戦後とはいえ、それでも観衆は1000人ぐらいはいましたですかね。
 大山先生がいきなり、ノッソリと会場に現れたときは、みんなびっくりしましたですね。
 大山先生を扱った映画にも、また劇画にもありましたでしょう。 まさにあのとおりで、それは凄いものでしたよ。 会場からは溜息が頻繁に聞こえました。 風貌は、大山先生からもお聞きになったと思いますが、二目と見られませんでした。 まず、なんといっても目の輝きが凄かったですね。 それで、全身からは殺気が漂っていたんです。
 組手など、当時私には空手のことはよくわかりませんでしたが、先生と、他の選手たちとでは比べものにならなかったですね。 スピードや迫力の点で、他を寄せつけないといった感じでしたから……。
 ほとんどの選手が、立ち会いの時点で負けていました。 てんで勝負にならなかったですね。三つ、呼吸をしているあいだに、勝負は決していたようです。 1で構えて、2で空いての攻撃を受けて、そして3でこちらの攻撃を入れる。 このパターンでしたね、どの試合も。
 先生は体格的に見て、当時としては大きいほうでしたが、試合に出るほとんどの選手もわりと大きな身体をしていました。 ですから、体格的な問題ということもないでしょう。 私なんかのような素人目にも、力の差、技の差がはっきりと見て取れました。

 どちらが正しいのか、それともどちらも正しいのか、それは分かりません。 個人的な意見で言えばですが、岩村先生の見た光景は、約束組手の演武では無かったかと思います。 試合と試し割りと、それから演武組手をやったんじゃないでしょうか。 試し割りで瓦17枚割りを達成した件については、これを語る関係者もおらず不明。 しかし、演武で門下生が15枚や20枚の瓦を割っている事から推察すると、出来たであろうと思います。 そうそう瓦と言っても、今流通している様な試し割り用の瓦ではありませんよ。

 最後になりますが、本部に1947年と銘打たれたトロフィーがあるので、最優秀賞の様な形で表彰されたのかも知れません。

全日本トロフィー.jpg
トロフィーと共に


 如何でしたでしょうか?  このシリーズはバラバラに展開する予定ですので、次回は何巻に手を付けようか悩むところです。
 解説は…特に無いですかね。 今週は平日に1度くらい更新したいものですw
 それでは、また。

追記:
「京都新聞」の掲載を忘れていたので、追加しました。
 最も→尤もに訂正しました。

参考文献:
京都新聞 1947年
東京毎夕新聞 1956年
剛柔の息吹 山口剛玄著 栄光出版社 1966年
世界ケンカ旅行 大山倍達著 河出書房 1968年
KCコミックス 空手バカ一代 第1巻 原作:梶原一騎 漫画:つのだじろう 講談社 1972年
続・ケンカカラテ わが青春の修練秘録 大山倍達著 スポーツニッポン新聞社出版局 1974年
空手道 「大学OB 青春時代を語る」 創造 1977年
月刊パワー空手 1984年2月号 「武道カラテに捧げる生涯 大山倍達の足跡」 パワー空手出版社 1984年
武道空手 1989年9月号 「山籠り」 成美堂出版 1989年
紙のプロレス公式読本 大山倍達とは何か?  ワニマガジン社 1995年
月刊空手道 1995年10月号 「椎柱氏インタビュー<後編>」 福晶堂 1995年
わが夫、大山倍達 大山智弥子著 ベースボールマガジン社 1995年
ワールド空手 1997年5月号 「大山倍達伝説への旅」 ぴいぷる社 1997年
最強最後の大山倍達読本 ゴング格闘技編 日本スポーツ出版社 1997年
月刊大山倍達 創刊号 2004年
月刊大山倍達 第弐号 2004年
大山倍達正伝 小島一志、塚本佳子著 新潮社 2006年
 
参考映像:
「明日ハレルヤ」 関西テレビ 1990年


 






東京・池袋の武道具専門店 ブドウショップ



フレッツ光で最大106,000円キャッシュバック実施中!

藤子不二雄Aと極真空手(1979年)

JUGEMテーマ:空手
 ご存じの方も多いかと思いますが、漫画家の藤子不二雄A先生は、かつて極真の門下生でした。
 有段者名簿を見てもその名を見付ける事は出来ませんが(その後改めて確認したところ、81年に「藤子不二夫」名義で初段となっていました)、ときわ荘メンバーである、つのだじろう先生と共に週3回、半年ほど総本部に通っています。

大山倍達と藤子不二雄A.jpg
大山倍達総裁と藤子不二雄A先生

 今回はそのA先生が8年振りに本部に赴き、 大山倍達総裁に稽古をつけてもらった時に書いたエッセイを紹介してみます。

 「パーマンの日々」(18)
大山倍達師に8年ぶりで稽古をつけてもらった日…

大山倍達と藤子不二雄A2.jpg

なにをかくそう! このぼくはかの実戦空手・武道空手を標榜する極真会の大山倍達館長の直弟子なのである!
今から8年前、ぼくはつのだじろうと共に毎週三回、大山館長じきじきに稽古をつけてもらっていたのだ!
それは怠惰な毎日を送っていたぼくにはまさに衝撃的な体験であった! だが、半年後、ぼくは挫折してしまった。 以来、<あのまま続けていたら今頃は…>といつも悔やんでいる。
そこで8年ぶりに極真会館を訪れ、又稽古をつけてもらうことにしたのだ! 押忍!

 この様な書き出しで始まり本部を訪れたA先生は8年前の事をこの様に綴ります。

8年前、ぼくは月、水、金と毎週三回、ここへ通った。ナマケモノのぼくにしてはよくやったというべきだ。 ここへ通いだしてから体調がバツグンによくなった。 そして不節制な生活がたちまち健康的になり、生活にリズムが生まれた。
それはモチロン、精神的にもすばらしい効果をあたえてくれた。
だが、半年後、ここへ通わなくなったら、たちまちモトノモクアミ、体調は悪化、生活は乱れ、精神状態は又、情緒不安定にもどってしまったのだ!

 そして当時で云う館長室に招かれ、大山総裁と再会するA先生。

大山倍達と藤子不二雄A3.jpg

何事も根気と忍耐がなきゃだめだ! どんな大木も一夜にして大きくなったのじゃない。何年、何十年、あるいは何百年の間に少しずつのびていったのだ!
修業の道も同じこと、少しずつの積み重ねでのびていくものだ。 人間はだれしも楽な方へ流れやすい! だからそれをくいとめるために強い忍耐心と意志力が必要になるのです!

 と耳の痛いお話を聞いてから久々に稽古をつけてもらう事になったA先生。 帯の結び方を忘れていましたが、内弟子がやって来てフォローします。
 そして道場へ。

大山倍達と藤子不二雄A4.jpg

道場では、若い門下生の人たちが熱心に稽古をしていた!
壁にかかる「敬天愛人」の額と天井から下がっているボール(蹴りの練習に使う)がなつかしい!
ぼくはおそるおそるみんなの中にまぜてもらった。

約一時間、若い熱気あふれる門下生の人たちと汗をながした。
稽古が終わり、道場の板の間に正座して名称に入ると、頭の中がクリアーになり、停滞していた身体中の血がドッドッと流れはじめた感じ。 まさに心身爽快! これから又修業の道にはげもうか!と思う。

大山倍達と藤子不二雄A5.jpg

 と綴っていますが、どうやらその後は通わなかった様です。 しかし2009年に漫画家の西原理恵子先生のイベントに招かれた際にも極真会館入門の話をしている様なので、A先生の中でも印象に残る出来事だったのでしょうね。
 

 って事で今回は終了です。 昨晩書き上げたのをアップロードせずに寝てしまったので、出社前更新ですw
 藤子不二雄A先生直筆による大山総裁の絵というのは貴重でしょう。
A先生の<あのまま続けていたら今頃は…>と言う言葉は、途中で挫折した人、辞めてしまった人全てに共通する思いかも知れません。

 そう言えば新極真会の緑健児代表のフィギュアが発売されます。 顔は微妙ですが、フォームは完璧ですね。 これは間違い無く緑代表の蹴りだと言えるでしょう。 何でも、拳と足は本人から型を取っているそうなので、これも本物です。

緑健児フィギュア.jpg
氷柱をセットして演武を再現してみたいです

 興味がある方は是非w
 それでは、また。

追記:
 80年までの有段者名簿しか見ていませんでしたが、81年に初段を允許されているのを確認したので、訂正しました。

参考文献:
極真への道 大山倍達著 日貿出版社 1976年
ビッグコミック 1月10日号 「パーマンの日々」 小学館 1979年

参考リンク:
ビッグコミックスペリオール:西原理恵子の人生画力対決 (2010/12/17)







東京・池袋の武道具専門店 ブドウショップ



フレッツ光で最大106,000円キャッシュバック実施中!

ある日の極真会 8 (近代カラテ 1967年12月号)

JUGEMテーマ:空手
 本編を始める前に一つ。
 先月、11月19日の夜にジャック・サンダレスク氏(82歳)が多臓器不全で亡くなられたそうです。 「空手バカ一代の元ネタ」で取り扱った5日後のことですので、少し奇縁に思います。
 最近読んでいなくて気が付かなかったのですが、海外の極真系掲示板でも大山倍達総裁の親友の訃報として流れておりました。
 
サンダレスク.jpg
往年のジャック・サンダレスク

 謹んで哀悼の意を表します。

近代カラテ1967_12.jpg
 
 さて、本編ですが、ずーっと目次に載っていて気になるものがありました。 毎回何かしらの名言が載っていたんですよね。という事で今回から紹介します。

 人智の発達上 他のいかなる時期においても今日の時代ほど 人間が自身にとって疑問になったことは かつてなかった
マックス・シェラー

「空手ニュース」 海外から
・ニュージーランドのジョン・ジャービス氏一行帰国
 11月下旬、3月から日本で修業をしていたジャン・ジャービス氏が帰国した。
 約10ヶ月間、大山倍達館長の元で稽古を重ねて来たジャービス氏は帰国前に百人組手に挑戦した。
 有段者が相手だったという事もあって、達成後2,3日は全身痣だらけだった。
 「かなり、きつく当てられていたので、今に倒れるかと思っていたが、とうとう最後迄やりとうした強いねおどろいた」
とは、大山館長の談。

・オランダから留学生
 オランダ極真会のジャン・ブルミン支部長の弟子であるヤン・カレンバッチ氏ともう1名が11月初旬に来館。 暫くの間、日本で空手を学びたいと云う事だ。

・ロンドン・タイムスから
 イギリス極真会から便りが来た。 ロンドン・タイムスに、中近東のヨルダンで教えている時のスティーブ・アニール支部長の弟子が大きく扱われている。
 既に本誌でお伝えした通り、アニール支部長の弟子とはヨルダンの王族である。 詳細は来月号に掲げる。

「空手ニュース」 国内から
・四国の松山警察極真空手採用
 四国極真会館は、今年始めの大山館長の四国行きをきっかけに発足した。
 本部からは芦原英幸指導員が赴き、現在も指導の任に当たっている。
 芦原指導員と在地の協力者によって発展を続けており、既に何回かの演武会も行われた。

芦原英幸瓦15枚割り.jpg
芦原指導員の瓦15枚割り

 最近では、松山警察が極真会館に入会する事になり、四国の極真会が大きな発展を遂げている。 大山館長がアメリカにおいてFBIに逮捕術を指導したのと同様である。
 11月26日には、松山警察署長も見物する演武会を開くとの事。
 その際には、本部よりも応援に行く事になっている。 女子部と指導員による編成だそうだ。

・極真会館 秋の旅行
 極真会館では、大山館長を始め、指導員、職員、外国から来た留学生を交えて10月22日、23日、綱代温泉に出掛けた。

極真慰安旅行1967.jpg

 夜には、宴を開き、館長の昔の愛唱曲を聴き、和やかな一時を過ごした。

・極真会館1968年カレンダー
 多くの希望者に、未配布があった前回のカレンダーは問い合わせが殺到していた。 思わぬ反響に館長も驚いたが、今回は前回の轍を踏まぬ様に、部数を増やした。
 写真は講談社写真部、日貿出版等から厳選し、迫力あるものになっている。

・昇段者に論文提出の義務
 初段以上に昇段する者は、空手に関する自分自身の論文を作成して、大山館長に提出する仕組みが出来た。
 段位以上は少なくとも、空手観及び、技術上のそれにしても、一応理論を造らねばならない。

アメリカの空手熱の実態
文:日刊スポーツ新聞記者 鈴木庄一
 海外における空手ブームをレポートした。
 現在ニューヨーク空手界で最も大きな道場は、ヘンリー・チョウ氏のコリアン・カラテ・インスティーチュートと極真会館のスクール・オブ・サイエンティフィック・ジュードー・カラテの両道場である。

中村忠ブルックリン道場1967.jpg
中村指導員の道場

 韓国系米人のチョウ氏はニューヨーク空手界の実力者で、今春4月にマジソン・スクエア・ガーデンで大会を開催しており、同所で大会を開いたのは大山館長とチョウ氏の2名だけである。

「モリイの目」
文:極真会館委員:森井嘉孝

「この人に聞く」 第20回
栄光産業K・K社長 加藤憲司氏
 加藤氏は、大山倍達館長が東京目白に道場を設けた1952年頃に、一番始めに入門した人物である。

「カラテ界 現代の主役」
全日本空手道連盟理事長 全日本学生空手道連盟顧問 小幡功氏

小幡功1967.jpg
小幡功氏と慶応大空手部


文:歌人 草壁焔太

「古武道の研究(お留武術について)その2 大東流合気柔術の謎」
文:松田鉦

「近代カラテ 誌上教室」 第5回
特殊攻撃

「空手と禅」 第4回
文: 極真会館館長 大山倍達

「武道と空」 第11回
文:作家 森川哲郎

「美容教室」第2回
女性美について

「私の道程」第18話
文:極真会館館長 大山倍達


 今回はここで終了です。
 こう、時系列に「近代カラテ」を紹介していると、理解していたはずの物事の理解がより増すという気がしますね。
 松山警察への指導の件ですが、芦原先生の自伝を読むと、その前に警察の道場を借りて指導していた時期がある事が分かります。 一度そこから追い出された後、松山の警察学校で指導をする事になるのですが、この記事ではどちらの話なのかちょっと分かりません。 八幡浜では無く、松山警察と書いてあるので、後者だとは思うのですが。
 そう言えば、今号には当時の極真会館勢力図が載っていましたので、紹介しておきます。

極真勢力地図1967.jpg

それでは、また。


参考文献:
近代カラテ 1967年12月号
流浪空手 芦原英幸著 スポーツライフ社 1981年

参考リンク:
訃報 ジャック・サンダレスク師範 (2010/12/19)
Jacques Sandulescu: February 21, 1928 – November 19, 2010 (2010/12/19)

 






東京・池袋の武道具専門店 ブドウショップ



フレッツ光で最大106,000円キャッシュバック実施中!

日本一の空手チョップ 大山倍達七段 (1955年)

JUGEMテーマ:空手
 こないだふと携帯からブログを見て気付いたのですが、第二水準以上の漢字は絵文字に変換されるんですね。 Macユーザも同じ様な現象になってるかも知れませんが、当ブログはなるべく原文のままで掲載というポリシーがある為、文字化けしている箇所はWindowsで読み直すとかしてみて下さい。

日本一の空手チョップ.jpg

 さて今回はめっちゃ長文になりそうですが、1955年の「丸」という雑誌の4月号を取り上げたいと思います。 この記事は当時の空手界の状況をレポートしており中々興味深いものとなっています。
 冒頭は、空手の演武会で商工会議所の会頭が祝辞として力道山の空手チョップを讃えたところ、当日の引率者であった日本空手協会理事長の高木正朝先生が、「空手とはそんなものではない」と挨拶で長々と述べたところから始まります。

 だが力道山とて、ただの見様見真似で空手チヨツプを使つたのではない。 錬武館流の蔡長庚八段(内外タイムス社長)から一応基礎的な手ほどきは受けている。

力道山と蔡長庚.jpg

 この錬武館、当時空手界ではちょっとした問題になっていました。 1954年に「全日本空手選手権大会」と称する大会を開いた事から、他の伝統系より反発を受けたのです。 以下引用。

 …驚いたのは”我こそは正真正銘の空手なり”と自ら任じているこれらの三流派だ。 全日本と銘打つ以上我が流も大会に参加する資格がある出会え!出会え!というわけで、日本空手協会松濤館流の高木理事長から、全日本空手道剛柔会の剛柔流本部長山口剛玄氏の許に
 『俺のところからも三〇名から五〇名の有段者を送るから、君のところも同数の選手を頼む』
 と飛脚が飛んだ。 共同戦線を張つたわけである。
 一方和道流の全日本空手連盟会長大塚博紀氏からも錬武館に『全日本と銘打つのなら俺の方も参加させろ』というわけで錬武館はこれら三主派の非難と挑戦を一身に受けてしまつたいきさつがある。 結局錬武館の全日本選手権試合というわけで、無事この演舞会は盛況裡に終つた。
(中略)
 これをみてもわかるように、現在の空手道界は全く統一されていないし、各々、自己の存在表示に吸々(原文ママ)としている。 各流派の幹部クラスになるとさすが、他流派を汚すような言動は少なく、統一の必要性を強く感じているようだが、末端ー各大学の空手部の方にくると、『おらが流派の空手は一番スゴインだ』 『会員の数もおらが一番多いんだぞ』という声が聞こえるが、これも人情というものだろうか。
 蔡八段は
 『いろいろ流派があつて、各々がお山の大將になつていては空手は発展しない。一つの島国根性だよ、空手に精進する人はだよ、とに角恐らく一生使えないかも知れないあの護身術の修得に日夜精進している。どの派だつてこの姿は美しいもんだよ、他を排斥したり、いがみあつていないで、ほかのスポーツのように統一されれば、ますます栄えるのに』
 と斯界の現状を嘆いている。
 これには他の派も異論は出ない。 剛柔流の御大山口剛玄氏などは『いろんな曲折はあつたにせよ錬武館が実践の空手を世に公開したことは斯道にとつてプラスした』とはつきりいい切つている。 がこと統一の問題となると、どの派も『私ンところは異存はないんですがね、そこが理窟通りにいかないところで』と奥歯にものが挟まつた口調であるどの派も異存がないのならさつさと一緒になつて国家的強力な組織をつくつてしまえ!といいたくなる。

小西康裕と摩文仁賢和.jpg
糸東流の摩文仁賢和氏の間違い

 そして沖縄から続く空手の歴史と秘密主義について触れています。 その秘密主義の一端としてこんな例も。

 山口剛玄氏がさる昔、糸東流の麻文仁賢和氏(原文ママ)に剛柔流の型を二つ教えたら、剛柔流の始祖宮城長順先生から『他流の人間にうちの型を教えるとはとんでもない』というわけで散々叱られたことがあつたそうな。

山口剛玄三戦.jpg

 本土での伝播についても触れられていますが、興味深いのが関西における空手界の覇権争いです。
 関西では剛柔流と糸東流が空手界を二分していましたが、摩文仁賢和先生が死去された後に大阪中の島公会堂で行われた、全日本学生交換稽古の直後に糸東流の殆どが剛柔流の関西地区本部に吸収されてしまい、四大伝統流派の一角が崩れたと記事にはあります。 実際には立て直して今日の糸東流があるのですが、当時は危なかったのかも知れません。
 それでは当時の空手界の現状というと…。

…大学になると、恐らく空手部のない学校はないだろうそして部員も他の部と比べて多い。 柔道、レスリング、ボクシグン(原文ママ)等案外派手な運動部よりもあまりジヤーナリズムの脚光を浴びない空手部の方が部員を沢山ようしているということは、戦後のかくれた珍現象の一つといえよう。
 各流派の公称会員数は松濤館流二十五万(高木理事長談)和道流は松濤館と同じ位でしような(波田常任理事談)剛柔流は糸東流の五万が合流したので二十万というところでしようか(山口会長談)この外他の分流、小会派を混ぜると百万突破も時間の問題だが、果たしてこんなに多いだろうか、某流某七段は五十万は出ていると思いますといつているが、道場の数からいつてもここら辺が落ち着いた数字ではあるまいか、
(中略)
 各大学を流派別に分けると、慶応、早稲田、拓殖、法政、中央、専修、は松濤館流、東大、日大、明治、立教、農大、国学院、教育等は和道流、関西にいくと、立命館、同志社、近畿等殆んど剛柔流一色である。

 そして話は競技化への問題に入ります。 当時は全日本空手道学生連盟でも試合は無く、交換稽古という名目で勝敗を問わない寸止め試合をやっていたそうですが、防具を着けた交換稽古は早くから行われていました。

 昭和五年剛柔流の立命館大学では、すでに型から実践へと、錬磨の方向が実用化されていた。 そして防具をつけたり、自信のあるものはつけないでやつていた。 恐らく最初の実践だろう。 そこへ小西氏らの斡旋ではるばる関東から船越氏が拓大の選手を連れて交換稽古にやつてきた。 交換稽古とはいうものの、最初の他流試合だ。
 この時は関東勢の数名に怪我人が出たが、『これは剛柔流と松濤館流の技術の優劣よりも、実践に慣れていた剛柔流と、はじめての実践にとまどつた松濤館流との間の慣れ不慣れの相違だつた』
 と当時立命館の空手の師範だつた山口氏は語つている。 この時の試合終了後、双方の間で相当険悪な空気がただよつたが、小西らになだめられて、ことなきを得た。 それ以来立命館と拓大の交換稽古は今もつて続いている。 けだしこの両校は東西の両横綱といつて過言ではなかろう。
(中略)
 日本学生空手連盟についてもアマチユア体育協会に空手の係はどこですかと尋ねると、講道館ですという。 講道館に連絡したら築地の全日本空手道連盟を教えてくれたが、何のことはない、ここは和道流の本部ではないか。
 このようなことのないよう早く統一されて、ちやんとした防具を考案して快い競技が一日も早く公開されることが望まれる。

 ここで漸く、本ブログのメインに移る訳ですが、大山倍達総裁が登場します。

 …さて、プロレスと空手とどちらが強いのだろう。 これは片方はシヨーであるし、片方は武道であるから比較にはならないとはいうものの、力道山が空手チヨツプの威力を示して以来というものは、各道場の話題は『プロレスのルールに空手の手がどの位許されるものか』ということでもちきりだつた。 が、盲点を探せば別だが、空手はすべからくルール違反に該当する(中山正敏氏談)
(中略)
 だが物見高いフアンにとつて有難きバロメーターがある全日本空手道選手権保護者大山倍達教士七段(剛柔流)のアメリカ遠征がそれだ。 彼は体力からいつても他のスポーツとの試合経験によつても恐らく実力日本一だろう。

 この後、アメリカでの武勇伝に続きます。

 この他彼はプロレスラーとも各地で十回程戦つたが、相手は殆んど一コロ、たまに八百長で三〇分くらい戦つて、その後で一コロにしたことはあつたが、負けてくれというレスラーの申し出はきつぱり断つている。
 二十七年の夏には
 『プロレスラーとも二度試合をしましたが、レスリングは所詮空手の敵ではなかつたようです』
 と自信に満ちた便りをよこしている。
 二十八年帰国した彼は牛との格闘もやつた。
 原プロと新東宝提携の記録映画「猛牛と闘う空手」は二十九年一月十四日午前十一時から快晴の館山市八幡海岸の砂浜で、一〇〇〇名以上の観衆の注視のうちに行われた。
(中略)
…記者は当時の感想を聞きかたがた池袋の大山七段の自宅を尋ねてみた閉口一番
 『一発で仕とめようと思つたが駄目だつた。 私の念願は無念無想のただ一発で牛を仕止めることです』
 彼の眼は昨年手刀で折つた牛の角の飾られている陳列棚に注がれた。
 また彼の範士山口剛玄氏からは拳では駄目だ。肱を鍛えろ、今度は肱で突くのだと教えられたという。

「丸」猛牛と闘う空手.jpg

 そして記者との一問一答。

ー力道山と試合して勝てるのはあなただけだと評判ですが、
 『あのね、空手というのはそんなもんじやないんですよ私は今、人間は鍛錬と精神の統一によればこんなに超人的な力が出るんだということを空手道のために記録しておきたい、それだけです。 力道山を倒したら超人的記録になりますかね、彼もやがては負ける時が来ます。 だれかに必らず負けます。 私は牛を一撃で仕止めたいのです。 それが出来たら熊とやります。 人間との真剣勝負は邪道じやないでしようか』
ー”空手の王者、プロレスに挑む”とか銘打つて八百長でもよいからやつたら絶対に受けるのに、余計なことかも知れないがいささか気になる。
 『空手に八百長はない。 アメリカでも随分レスラーと試合したが、加減はしても、八百長負けなどはしなかつた』
 力道山に勝つ自信があるかどうか、彼は一言も喋らなかつた。だが彼の周囲の人たちは、真剣勝負なら問題なく勝つが、プロレスのルールでいつたら苦戦だろう。 しかし蹴りや手刀が許されれば今のルールで大山に充分だろうという。 恐らく”大山力道山に挑戦するか?”などと一時騒いだのは彼が木村の親友であるから、もしかしたらという慾から出たジヤーナリズムの憶測だろう。
(中略)
 『私は木村さんの人格に惚れているのです。 力道山は私の友だちだからとか、木村さんが拓大の先輩だからなどということはぬきにして、木村さんが私は好きなんです』
ー彼は朝鮮出身である。 故郷の兄の手紙によると彼は猿飛佐助といわれているそうな。
 『とにかく噂つてものは恐ろしいですね。 私が指一本で牛の角を切るとかいわれているんですからね。 まあここまではいいとして、東京に起つた騒動で空いてが撃つて来た鉄砲の弾丸を手のひらで全部摑まえてしまうなんていうんですからメチヤクチヤですよ』
ー彼にも例外なく日本に住む関係上朝鮮人である苦悩はある。
 『こんなこといつてもしようがないことですが、若し私が日本人だつたら生活も楽になつてますよ。
ーしかし彼は空手道に精進することによつて、いろいろな形でくるイジワルも超越、抱擁するぐらいの人間に成長している
 『日本人つて気持ちが小さいですね。 私達に対する感情は別にしても、大学を出なければ喰つていけないんでしよう。 有名になると日本人同志で足を引つ張りつこして、あたら有能な人物を日陰においているような実例を渡しは随分拝見してます』
 朝鮮人なるが故育びようとする折角のチヤンスも彼は芽をつみとられた経験をいくつもしているだろう。 その毎に座禪を組み不満を霧散させ、無念無想の澄み切つた気持ちで石を割り、こうして彼が今では超人的魔力を得とくしたとはいえないだろうか。



 というところで記事は終えます。 本当は最後に空手界への苦言提言が載っているんですけど、略しました。
 何で今回この記事を取り上げたかと言いますと、「ゴング格闘技」で絶賛連載中の「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」に触発されただけですw
 「彼は朝鮮出身である」から先の引用は悪意を持ってコピペされそうでどうしようかとも思いましたが、隠したと思われるのもあれなので、掲載しました。
 この記事は興味深い箇所がいくつもあるので、カットするのに苦労しましたね。 木村政彦と力道山が闘って数ヶ月後の記事ですので、その辺りにも触れていますが、手打ちが行われた後でしょうから、記者の質問もさらっと流しています。
 まぁ実際には付け狙ったり、忍術で有名な藤田西湖先生と共に門茂男氏を通じて力道山への挑戦を伝えていたりするんですけどね。
 この辺りも「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」で触れてくれたらメッチャ嬉しいですw
 増田俊也先生、宜しくお願い致します。

 それでは、また。

参考文献:
丸 4月号 「日本一の空手チョップ 大山倍達七段」 光人社 1955年
門 茂男のザ・プロレス 力道山の真実 門茂男著 角川書店 1985年
 






東京・池袋の武道具専門店 ブドウショップ



フレッツ光で最大106,000円キャッシュバック実施中!

つのだじろうの「ゴッドハンド 」 1 (第1話〜第2話)

JUGEMテーマ:空手
 最近TBSのドラマ「SPEC」で、登場人物の一人が「ゴッドハンド 大山倍達!」と叫びながら銃に突進したとか何とか、そういう話を聞きました。
 でも、もう大山倍達を知らない人も多いんですよね。 昔は「こちら葛飾区亀有公園前派出所」でも「大山倍達より怖い!」なんてネタが出ていたんですけどねぇw

 という事で今回は1978年に「週刊少年チャンピオン」で連載されていたつのだじろう先生の劇画「ゴッドハンド」を何回かに分けて紹介します。

チャンピオン1978_01.jpg

  この作品は斉藤貴男氏の「梶原一騎伝」にも裏話が出ていますが、色々とトラブルがあったんですよね。 その辺りはラストでやります。
 元々は作家の平岡正明先生が「世界日報」で連載していた「ゴッドハンドの伝説」(後に「月刊パワー空手」にも転載)をベースにしていたと思われます。 というのも、割と設定が似通っているんですよ。

 前回まではこちら。
つのだじろうの「ゴッドハンド 」 1 (第1話〜第2話)
つのだじろうの「ゴッドハンド 」 2 (第3話〜第5話)
つのだじろうの「ゴッドハンド 」 3 (第6話〜第8話)
つのだじろうの「ゴッドハンド 」 4 (第9話〜第10話)

パワー空手1978_01.jpg

 さておき、本編。

一撃必殺! 大山空手の全貌を余すところなく描く鮮烈の実録空手巨編!!

なんて煽りが付いています。
 この漫画が興味深いのは、アバンタイトルみたいなシーンが入っているところですね。 2回もタイトルコールされてるようなもんです。

チャンピオン1978_02.jpg

一閃の
突きとケリで
拳銃を
はじき落とし

日本刀に素手で立ち向かい
数十頭もの
牛と戦い
角をたたき
折りー
FBIを指導
ゴッドハンド(神の手)と
呼ばれた世界最強の男がいる!
大山倍達である!

チャンピオン1978_03.jpg

 そして、
 
おそらく その拳は
石のように固く
巌のようにゴツイと
人びとは思うだろう……
しかし実際には
その手のひらは 広く
やわらかく そして
あたたかい

私は ここに
今まで描かれなかった
大山倍達を描いてみたい!!

つのだじろう

チャンピオン1978_04.jpg

ここまで来てようやくタイトルですよ。 当時としては割と珍しいんじゃないでしょうか。 映像を意識しているような感じですね。

チャンピオン1978_05.jpg

 そして第一部「昿野の野獣の章」が幕を開けます。
 1931年、場所は満州・札蘭屯、ここに1対多数で喧嘩に明け暮れる倍達少年がいた。 倍達は、石を持って反撃、相手に怪我を負わてしまう。

チャンピオン1978_06.jpg

 当然、倍達の叔母夫婦が暮らす大山農場には隣村から苦情が寄せられる事になった。 倍達の悪ガキ振りは有名で、叔母夫婦も困り果てていたのだ。

 ー1923年、関東大震災のあった年に大山家9人兄弟の4男として生まれた倍達は、満1歳の頃、家に托鉢に来た僧侶にこう予言される。

 この赤ん坊は異相の子だ
 この子は将来きっと世界をおどろかすような大きなことをやるにちがいない
(中略)
 他人にあずけなさい
 そうすればこの子はきっと大成する

 その言葉を受け、倍達の両親は2歳の時に「銀山寺」に1年、3歳から小学校に入学するまでは満州・奉天の親戚宅、そして札蘭屯へと転々としていたのだった。

 話は戻り、相手のガキ大将に怪我を負わせた倍達は、叔母の家には戻らず報復する為に仲間たちを集めて隣村に夜襲を掛ける事を決意する。

 というところで終わり。 次号に続きます。

 で、第2話。

チャンピオン1978_07.jpg

 隣村の川上開拓村までやって来た倍達一同。
 昼間、倍達を襲撃したガキ大将の家と、大山農場に文句を言いに行った家をターゲットに絞り、作戦を組む。 倍達とその仲間は色々なイタズラ作戦を考えており、その中の一つ、「4号作戦」で報復をする事に決定する。
 この作戦は、敷き布団に水をこぼして寝小便に見せかけるというイタズラから発展したもので、倍達たちは寝静まった家に侵入し、布団に水をぶっかけ、素早く撤退する。
 春とは云え、北部の満州はまだ寒く、当然ながら大人たちは大激怒、悪ガキたちを追って来た。
 捕まり始める仲間たち。 倍達は責任を取ると言って囮になる為に飛び出す。
 しかし、熊と呼ばれる男が猟銃で倍達を狙い引き金を引いた事から、状況は一変してしまう。
 動きの止まった倍達に群がりリンチを始める大人たち、猟銃をぶっ放した熊もまた、猟銃を振り上げ、銃把で殴り付けようとする。
 その時、棒が二人の間に割り込む。 1人の中国人が割り込んで来たのだ。

チャンピオン1978_08.jpg

 理を説いて場を修める中国人。 最後には膝を付いて倍達の代わりに自分を殴って済ませてくれとすら言い始めた。
 皆納得したが、ただ1人、熊だけは納得行かず、無抵抗の中国人を殴り付けた。

 ここで終了。

 今回はここまでですね。
 それにしても見開きを編集するのは面倒ですねぇ。
 この頃の「週刊少年チャンピオン」はリアルタイムで読んではいませんが、その数年後に「マカロニほうれん荘」や「ブラック・ジャック」にはハマったものです。
 特に「ブラック・ジャック」は、今ウチ(会社)でアニメの配信をやっており、思わず文庫版で全部揃えてしまいましたw
 参考までにこの頃の連載を掲載しておきます。

チャンピオン1978_09.jpg

 とか何とか書いていたら、「マカロニほうれん荘」が読みたくなってきました。
 それでは、また。

参考文献:
月刊パワー空手イラストレイティッド1月号 パワー空手出版社 1978年
週刊少年チャンピオン 第16号 秋田書店 1978年
週刊少年チャンピオン 第17号 秋田書店 1978年
梶原一騎伝 斎藤貴男著 新潮社 2001年

 






東京・池袋の武道具専門店 ブドウショップ



フレッツ光で最大106,000円キャッシュバック実施中!

空手&格闘技のレア物 1

JUGEMテーマ:格闘技全般
 昨日は納会でして、前日に予約しておいたバーガーキングのNYピザ・バーガーを皆で食った後、池袋の日本武道具にお邪魔して先月より目を付けていた老松信一著「柔道五十年」を入手してきました。

NYピザバーガー.jpg
バーキンは10年位前にアメリカで食って以来
 
 さておき、今回は空手や格闘技に関するレア物を色々紹介してみようかと思います。
尚、紹介する物は手に入らない物も多いので、「こんなの物もあるんだ」ぐらいの感覚で見て貰えればいいかとw
 今回は画像がいつもより多いです。 ネット環境によってはちょっと重いかも知れません。

***

 まず最初は日本空手協会の首席師範だった中山正敏先生の本、”PRACTICAL KARATE”。 海外に向けて武術を広く紹介した事で名高い、ドン・ドレガー氏との共著です。

中山正敏本.jpg

 この本を何故ここで紹介したかというと、これが中山先生の初めての著書だからです。
 63年にこの本が出版され、65年に名著「空手道新教程」を出版されていますので、こっちの方が先です(一応国会図書館と、アメリカの議会図書館で確認しました)。

中山正敏本2.jpg
靴の使い方まで載っている

 本書は護身術という事で、ほぼ全編私服で中山先生が演武されており、各種実戦的な技法を紹介しています。 今となっては大変貴重な物では無いでしょうか?

***

 次はアメリカ合衆国旧陸軍省の”BASIC FIELD MANUAL UNARMED DEFENSE FOR THE AMERICAN SOLDIER”です。 平たく言えば、陸軍兵士用の素手による護身マニュアルですね。 日本と戦争中だった1942年6月に発行されています。

アメリカ陸軍格闘マニュアル.jpg

 あまり知られていない気もしますが、米軍では戦前からボクシングやレスリング以外にも、柔道や柔術を自軍に取り入れており、戦争中も指導されていました。
 本書では柔術から柔道に発展した事、そしてそれが極めて効果的だという事にも簡潔に触れ、その上で各状況に対する反撃法が示されています。

アメリカ陸軍格闘マニュアル2.jpg
締めの解説

 よって、基本技術は柔術がベースとなっており、手首への関節技から急所への打撃、絞め技が紹介されています。
 また、軍隊だなぁと思わせる様な状況が多く、素手以外にも対ナイフ、対サーベル、対警棒、対銃剣等がありました。

***

 今度は旧ソ連で発売された極真の技術書。

ソ連極真本1990.jpg

 これはウクライナの方から入手した物で、氏によれば1990年にソ連で最初に発売された極真の本だという事でした。
 キリル文字がまるで読めないので正確には分かりませんが、試しにMastering karateをウクライナ語に変換してみたら、同じタイトルになりました。 写真は1966年版の”What is Karate?”や”Mastering Karate”と同じですので、間違い無いでしょう。 まぁ、ひょっとしたら海賊版かも知れませんけど。

ソ連極真本1990b.jpg

 ザラ紙に中綴じという、物不足で喘いでいた当時の東側諸国の生活状況が伺える製本となっています。 2色刷りなんですが、赤いのと共産圏はきっと関係ありませんよね?

 ここで少し極真豆知識。
 旧ソ連に初めて極真の非公認組織が出来たのが1972年。 東欧で極真を学んだタニューシキン氏(後のロシア支部長)が持ち込んだそうです。 多分その師匠がユーゴスラビアのモドリック氏ですね。
 78年、ソ連空手連盟なるものが設立。 79年にはソ連大使館での大演武会、第2回世界大会ではタニューシキン氏が選手を引き連れ、参加するという話もありました(結局不参加)。

ソ連大使館演武.jpg
有名なソ連大使館でのビール瓶裏拳割り

 この頃にはソ連15の都市に同好会があり3000人以上の門下生がいたそうです。 この時期までの関係は良好だったと云えるでしょう。
 しかし83年(81年説も)になると、理由は不明ですが、ソ連で空手が禁止となります。 一転して反逆者となってしまったタニューシキン氏はポーランドへと亡命。 その後ソ連では地下で空手が続けられ、時には逮捕された修業者も居たと聞きます。
 そして89年、在モスクワ日本大使館から外務省を経由して、極真会館に一つの公式文書が届きます。 発信元はソ連科学アカデミー哲学協会傘下にある全ソ東洋格闘技研究センター。 内容は以下の通りです。
・89年になって東洋格闘技研究センター(88年設立)に極真空手道部門が設置された。
・タニューシキン氏がその責任者となった。
・この部門は極真の基本方針に則って運営される。
・その為、タニューシキン氏をソ連極真会館の代表としての権利を認めて欲しい。
・その旨を、国際空手道連盟全支部に通達して欲しい。
 総本部は要請を受け入れ旧ソ連支部が発足。
 そして90年3月までの時点で、ウクライナだけで5000人の生徒を抱えるまでに成長しました。
 そんな状況の中出版されたのがこの本なのです。 今のロシア極真会の原点と言える本かも知れませんね。

***

 さて、ところ変わりまして、今度は香港の海賊版「空手道護衛術」。

香港極真本.jpg

 元ネタは東谷巧版の「秘伝極真空手」と、「100万人の空手」だと思います。 発行年は不明ですが、蔡茂豊編著と書いています。 しかし、どこにも「極真」とも「大山倍達」とも書かれていません。

香港極真本2.jpg

 全く酷いもんです。

***

大山倍達梶原一騎生写真.jpg

 続いては大山倍達総裁、梶原一騎先生の2ショットサイン入り生写真。 多分「マス大山カラテスクール」の受講特典です。 この時の梶原先生は道着を持っていないのか、大山総裁の道着を着ています。 何となく着こなしに違和感を感じるのは道着のサイズが合っていないのと、梶原先生が道着を着慣れていないみたいだからでしょうね。
 この特典は時期によっていくつかある様で、他にも「大山倍達八段」と入った正拳蝋燭消しの写真、真樹日佐夫先生との2ショット写真、ウィリー・ウィリアムス対アントニオ猪木戦の写真等があったみたいです。

***

 影丸譲也先生による、「空手バカ一代」の大山総裁と芦原英幸先生の色紙。

空手バカ一代色紙.jpg

 絵は印刷っぽかったので、恐らく「週刊少年マガジン」のプレゼント用だったのでは無いでしょうか? サインが入っていないのもその為かと。
 ちなみに、今は所有していませんので、悪しからず。

***

 日本プロレスの歴史的なパンフレット3つ。

日プロパンフ初期.jpg

 左上が1954年の日本プロレス初興行の物、右上が力道山 対 木村政彦の日本選手権試合の物、そして下のが57年、ルー・テーズ 対 力道山のパンフ。
 実際に買えばそれぞれ3万くらいはしますが、手元にあるのは昔「月刊ゴング」が別冊付録として復刻させた物です。
 やはり興味深いのは日本選手権のパンフで、日プロ主催なのに選手紹介は木村先生の方が先に来ていたりします。 また、パンフの記事中にはエリオ・グレイシーとの対戦等も載っています。

鉄人木村.jpg
 
***

 次は、大山茂先生の極真時代に出版された技術書。

大山茂極真技術書.jpg

 演武者は茂先生と泰彦先生です。 収録内容は基本と太極気念榮扱慮鼎盻猗運動もありません。
 巻末には当時の米極真支部一覧がありますが、70年代初期と比べるとかなり弱体化しています。

***
 
花の空手道.jpg

 70年にコロムビアレコードから発売された瑞季竜なる歌手によるシングル「花の空手道」。 と、まぁ、ここまでは良いのですが、後援がこの様になっています。
後援・日本空手道・国際空手連盟総本部/極真会・大山倍達
 まぁ、この瑞季氏が門下生だという事なんでしょうけど、詳細はよく分かりませんでした。
レコードは沢山あるので、こちらもいずれまとめて紹介します。

***

 最後は謎の極真消しゴム。 詳細は全く不明ですが、「キン消し」が流行ったのと同じ時期に出ていたとおぼしき消しゴムです。

極真消しゴム1.jpg

 多分鉢巻きを巻いているのと、髪が後退しているのが大山総裁です。 後怪しいのが1体ありますが、こちらは確定出来ませんでした。 他は忍者っぽいのが3体で内1体が女性、片袖脱いでいるのとゴツイ顔のが1体ずつ。 そして鋲を打ったベストを着ているのが1体。 計8体。 全部で何体あるのかも分かりませんw

極真消しゴム2.jpg
大山倍達だと思われる2体

 背面には(c)M.O.E.という刻印がありますので、多分マス大山・エンタープライズから権利を得ているんじゃないかと思います。


 年内最後の更新、如何でしたでしょうか? 軽くやって終わらせようと思ったら…思った以上にマニアックかつ、意外にソ連の極真本で手間取り、時間が掛かってしまいましたw
 まだまだネタは沢山ありますが、今回はこれくらいですかね。 映画「地上最強のカラテ」の立て看板とか、とある極真の支部で飾られていた茂先生の瓦割り写真とか、戦後ボクシング界のバイブル等もありますので、この辺りもいずれ紹介したいですね。
 ウチにはこんなのがあるぜ! みたいな自慢等ありましたら、画像、来歴を添えてメールを頂ければ数が溜まり次第紹介しますので、お待ちしております。
 
 それでは皆様、良いお年を。


参考文献:
FM 21-150, UNARMED DEFENSE FOR THE AMERICAN SOLDIER, War Department, United States Government Printing office, 1942
M. Nakayama & Donn F. Draeger, PRACTICAL KARATE BOOK I, Charles E. Tuttle Co., Inc., 1963
S. Oyama & Y. Oyama & M. Miura, U.S. KYOKUSHIN OYAMA'S KARATE OFFICIAL TEXT BOOk BASICS NO.1, U.S.Kyokushin karate, 1981
Масутацу Ояма, Мастеринг КАРАТЕ, 出版社不明 1990
空手道護衛術 蔡茂豊編著 香港良友出版社 出版年不明
世界選手権争奪 プロ・レスリング特集号 (月刊ゴング 1976年10月号別冊 パンフレット復刻版II) 日本スポーツ出版社 1976年
日本選手権大試合 (月刊ゴング 1979年1月号別冊 パンフレット復刻版ぁ 日本スポーツ出版社 1978年
世界選手権者大試合 記念号 (月刊ゴング 1979年2月号別冊 パンフレット復刻版ァ 日本スポーツ出版社 1979年
月刊パワー空手 1979年9月号 「大山館長以下精鋭五十余名 ソ連大使館で極真カラテの演武会!!」 パワー空手出版社 1979年
第2回オープントーナメント全世界空手道選手権大会記念プログラム 国際空手道連盟極真会館編 1979年
月刊パワー空手 1989年12月号 「アメリカとソ連に巨大極真組織誕生へ」 パワー空手出版社 1989年
月刊パワー空手 1990年 6月号 「最新ソ連カラテ事情 パチコフスキー支部長に聞く」 パワー空手出版社 1990年
月刊パワー空手 1990年 9月号 「極真代表団 感動のソ連ウクライナ遠征」 パワー空手出版社 1990年
極真の精神 大山倍達著 市井社 1994年

 






東京・池袋の武道具専門店 ブドウショップ



フレッツ光で最大106,000円キャッシュバック実施中!





| 1/1PAGES |